平家踊りの歴史

 この踊りは、寿永の昔平家終焉の哀史以来、壇之浦において御入水遊ばされた安徳天皇の霊をお慰めすると共に、平家一門供養のために源を発したと言い伝えられ、先帝祭花魁道中(せんていさいおいらんどうちゅう)と共に下関市観光行事の双璧としての由緒ある踊りとして現在に伝承されております。

三味線、音頭、太鼓、踊りの渾然一体となった速いリズムが醸し出す力強いエネルギーは、恰も関門海峡に渦巻く潮流のうねりの如く、馬関・下関の歴史を現在、そして未来へと伝えます。

 今日、この踊りは郷土芸能として広く下関市民に親しまれるばかりでなく、古くは大阪の万国博や沖縄の海洋博はもとより、国内大行事は申すに及ばず、フランスニースの国際カーニバルにも招待され、最近ではトルコ国イスタンブールにおいて開催されたジャパンウイークフェスティバル(2003年)の他、アメリカ、ヨーロッパ、中国、韓国でも公演・出演するなど、その名声は国際的にも高く評価されております。

    1977年フランス ニースカーニバルより招請を受け出演。

 1975年 沖縄海洋博覧会に出演。

 

壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)とは、平安時代の後期の元暦2年(寿永4年)3月24日に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦いである。源平合戦と呼ばれる一連の戦いの最後の戦い。「源平合戦」

屋島の戦いで敗北した平家は彦島(山口県下関市)に拠って源義経率いる源氏の水軍と戦った。明け方に戦いが始まった。当初は潮流が平氏方に有利で、また平氏はもともと瀬戸内海を本拠としており海戦に強いため、平氏方が優勢だった。不利を悟った義経は敵船の水手(漕ぎ手)を射るよう命じ、平氏方の船は身動きが取れなくなる。この戦法は当時の戦争における不文律を破るものだった。正午ごろには平氏方が劣勢になり、潮流の変化を機に源氏方が攻勢に転じる。やがて平氏方不利と見た諸将が源氏方に寝返り始め、敗戦を覚悟した平家一門は海へ身を投げた。平氏方の将、平教経から逃れるため、義経が八艘飛びをしたという逸話はこのときのものである。二位ノ尼も安徳天皇とともに入水する。平氏一門の諸将も入水し、三種の神器の1つである剣もこの時に沈んでいる。平氏方総大将の宗盛も入水するが、泳ぎが上手かったため死に切れず、源氏の兵に救い出される。宗盛は後に鎌倉へ護送されて頼朝と対面し、京へ戻る途中に斬首された。

 

下関 壇ノ浦

今は本州と九州を結ぶ「関門橋」の下

     速い潮の流れが歴史を物語る

両軍の構成

  • 源氏側
    • 総大将:陸:源範頼、海:源義経
    • 船数:800艘(吾妻鏡説)・3000艘(平家物語説)
    • 参加武将:梶原景時
  • 平氏側
    • 総大将:平宗盛
    • 船数:500艘(吾妻鏡説)・1000艘(平家物語説)
    • 参加武将:平知盛・平経盛・平教盛・平教経・平資盛・平有盛・平行盛・平時忠・平清宗・藤原景清

 

                                  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (壇ノ浦の合戦 より)

「壇ノ浦の戦い」

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   出典:山口県広報誌「ふれあい山口」より

下関平家踊りのルーツは、壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の供養のための盆踊りに始まる。

 盆踊りに欠かせないのが太鼓、音頭(歌、口説き)、三味線と踊り。1960年、市内に住む盆踊りの好きな人たちが、後継者を育てること、平家踊りを広く普及させることを目的に「下関平家踊り保存会」を結成。

 

 

 

 

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